皇室ファミリー

源平争乱=武士台頭の時代、一番荒波にさらされたのは朝廷の方々でありましょう。
荒ぶる武士たちに牛耳られ、あるいは武士たちを操りつつ、
激動の時代を生き抜いた数奇な運命の方々を紹介します。

現在7名
後白河法皇崇徳院守覚法親王以仁王高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇

後白河法皇ごしらかわほうおう
後白河法皇 ♪俺は日本一の大天狗と呼ばれた男♪
享年66(1127〜1192)
第77代天皇
鳥羽天皇第四皇子
生母:待賢門院璋子(たまこ)/同母兄:崇徳天皇
諱(いみな):雅仁(まさひと)

異母弟の近衛天皇が早世したため久寿二年(1155年)タナボタ的に即位した。今様(カラオケ的なもの)びたりで何度も喉をつぶす、その上女ったらしで男色もバリバリという困った「愚昧の君」。当時流行っていた熊野詣には34回も行った(歴代天皇トップ記録)。だが遊びに興じるかたわら政治手腕も実は相当なもので、譲位したのちは天皇五代に渡って強力な院政をしき、保元・平治・源平相克の時代を、武士らを手玉に取って図太く生き抜いた。ことに九郎義経を優遇して手なずけ、頼朝を怒らせた。「日本一の大天狗」という有名なあだ名(?)をつけたのは頼朝。老獪な政治家、芸能を愛し色を好んだ俗人、両極の顔を持つ破天荒なおもしろい上様。ハタ迷惑ではあるけれど。

崇徳院すとくいん
ビッグネームなタタリ神
享年46(1119〜1164)
第75代天皇
鳥羽天皇第一皇子
生母:待賢門院璋子(たまこ)/同母弟:後白河
諱:顕仁(あきひと)
通称:新院 讃岐院

保安四年(1123年)、五歳の時に即位。しかし、白河法皇・鳥羽上皇の院政のもとにあったため実権はなかった。また父鳥羽は彼を白河法皇の子と思い、叔父子と呼んでつらく当たった。さらに摂関家同士の確執もあり、鳥羽上皇の死後、崇徳側と弟の後白河側とで合戦となった(保元の乱)。結果崇徳は敗れ讃岐に流され、その地で朝廷を呪いつつ没する。没したのちは、怨霊になったともっぱらの噂。

守覚法親王しゅかくほつしんのう
義経びいきの後白河子息
享年53(1150〜1202)
後白河法皇皇子
 仁和寺御室第六代
生母:高倉三位局成子(権大納言藤原季成の娘)/同母弟:以仁王
通称:喜多(北)院御室

都落ちののち畿内を転々としていた九郎義経を一時期かばい頼朝の怒りを買った。以前から義経になみなみならぬ好意を寄せていたようで、「尋常一様でない勇士」と褒め称えている。

以仁王もちひとおう
源氏旗揚げイベントのシンボルキャラ
享年30(1151〜1180)
後白河法皇第二皇子

生母:高倉三位局成子(権大納言藤原季成の娘)/同母兄:守覚法親王
通称:高倉宮、三条宮(三条高倉に住したため) 最勝親王

天台座主最雲法親王の弟子だったが出家を拒んで比叡山を出、十五歳で元服した。しかし継母建春門院(清盛の妻の妹)に疎まれて親王宣旨を受けられなかった。その鬱憤から、源頼政と共謀して平家打倒の烽火をあげることになる。しかし計画が未然に漏れて(行家のせい)まずは園城寺に逃れさらに興福寺をめざしたが、平等院前の激戦で頼政らは自害、以仁王も追捕の侍に討ち取られてしまった。

高倉天皇たかくらてんのう
短命のお飾り天皇
享年23(1161〜1181)
第80代天皇
後白河法皇第三皇子
生母:建春門院滋子(二位尼の妹)
諱:憲仁

八歳で即位したが、在位中は父・後白河と平清盛の権力抗争の狭間にあり、実権はなかった。妻に清盛の娘徳子をあてがわれるがあまり仲はよろしくなかったようで、ほかに多数の女人を愛した(無力な彼なりのレジスタンスか?)。風雅を好んだ短い人生のうちに四男三女の子を残した。徳子が生んだ第一皇子が安徳天皇。

安徳天皇あんとくてんのう
ミステリアス悲劇の幼帝
享年8(1178〜1185)
第81代天皇
高倉天皇第一皇子
生母:建礼門院徳子(清盛の娘)
諱:言仁(ことひと)親王

平清盛の娘・徳子が高倉天皇に嫁して生んだ皇子。壇ノ浦にて祖母である二位ノ尼に「海の底にも都があります」と諭され入水(多分ムリヤリ)。わずか八歳。そんな気の毒な彼には生存説や女性説、平宗盛と徳子の不義の子説、ヤマタノオロチの化身説などいろいろな憶測が乱れ飛んでる。

後鳥羽天皇ごとばてんのう
武家に負けるな!承久の乱
享年60(1180〜1239)
第82代天皇
高倉天皇第四皇子
生母:七条院藤原殖子/異母兄:安徳天皇
諱:尊成(たかひら)

寿永二年(1183年)、三種の神器のないまま四歳で即位。幼少のワケわからん頃を源平争乱の只中で過ごした。のち十九歳で譲位し、以後三代に渡って院政をしいたあたり後白河ばりのしたたかな政治家といえる。また歌人としても著名で歌詠み仲間として源実朝とも親しかったが、権力基盤を固めてゆく鎌倉とはつねに対立していた。やがて与しやすい実朝が暗殺されるに及んで承久三年(1221年)、執権北条義時追討の院宣を下して乱を起こす(承久の乱)。しかし敗れて、隠岐に配流されてしまった。